2022.12.01
新天地・満洲国 森繫久彌の回顧エッセイ
”満洲回顧集刊行会(会長岸信介)”発行の「ああ満州(国つくり産業開発者の手記)」に満洲電電公社で名アナウンサーとして活躍した森繫久彌のエッセイが記載されている。
もともと戦争嫌いで1939年に赤紙を受け取ったが耳の手術を受けた直後だったので即時帰郷となった。翌1940年、応召されず海外赴任できる数少ない仕事を探しNHKのアナウンサー試験を受け運よく合格した。3ヶ月の養成期間を経て、新京の満洲電電公社の新京(長春)本社に赴任することになった。ちょうどノモンハン事件後でNHKが満洲、朝鮮の各地へ報道網を拡大する時期と重なっていた。半官半民の満洲電電公社は関東軍の息が掛かっており指揮命令が軍隊方式なので、森繁は場違いのところに紛れ込んだと後悔している。2ヶ月間、満洲電電本社の受け入れ研修を経て、夜中に7名の仲間とともに行先も告げられず放送班としての招集命令が下された。
着いた所はノモンハンの背後の関東軍防衛司令部のあるチチハルで暫く滞留することとなった。担当課長がドイツ製の最新の録音機をもってノモンハン近くの様相の収録に行ったが、肝心の部隊長の演説が雑音と蚊の泣くような声でしか入っておらず、一同これではNHKへは送られぬと困り果てた。その時、新米の森繁が「部隊長の声色ならできます」と提案し放送を無事作り上げることができた。NHKからは録音は上々と感謝の電報をもらい みんな後ろめたい気持ちはあったが、その日課長は黙って森繁を酒を飲みに連れていってくれた。
それからは、森繁はトントン拍子に出世し給料も上がり放送のエキスパートとなっていた。また、満洲映画協会(満映)理事長であった甘粕正彦に気に入られ、プロパガンダのため国策映画のナレーターとしても活躍の場を広げた。満映を訪れる菊田一夫、山田耕筰、歌舞伎役者菊五郎らとの交流ができ戦後の多才な活躍の場への人脈の素地ができた。
わずか6年の在満期間であったが、大地の広大さと人の少なさに驚き日本帝国が欲しがるのも当然だと侵略者的な感想を述べていたが、ソ連軍進駐後の新京放送局で8月15日終戦の日までマイクを握り「放送局員として最も誇り高く、輝かしい数日を過ごした」と述懐している。
もし今、森繁が生きていたらロシアに攻められているウクライナ放送局員の気持ちに思いを馳せていることであろう。 戦後引揚後の森繫久彌の活躍は年配の人は誰もが知るところであるが、 森繁の人生は満洲時代に凝縮されていることと思う。 (ペンネーム寅次郎)