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農薬の深イイ話

2016.11.01

博多中洲の“飢え人地蔵”

中洲の繁華街の一角に場違いなお地蔵さんがひっそりとたたずんでいる。1732年(享保年間)に西日本中心に大飢饉が起こった。この飢饉は2月から6月までの長雨と大陸から飛来したイナムシ(ウンカ)の大発生によるものとされており博多で6000人の人がなくなっている。このお地蔵さんはその人たちを供養するためのものであり、現在でも毎年8月23日に供養祭が行われている。
当時の黒田藩は禄高52万3千石であったが42万石の減収となったと記録されている。イナムシの防除法については、1670年(寛文10年)福岡県遠賀郡立屋敷村の蔵冨吉右エ門がすでに考えだしていた。それは鯨油を水田に流し込み稲を竹箒で払いイナムシを田面に叩き落とし気門をふさいで殺す理にかなった方法であった。しかし、残念ながら享保の飢饉のときには広く普及しておらず使われていなかった。その後数十年たって、この注油駆除法は王丸彦四郎らによって再発見され、1790年以降、普及定着していった。徳川幕府の末期から明治初期までは、鯨油、魚油、菜種油などが注油用の油として使われた。1897年には、油は石油にとって代わられ大正から昭和の中期には除虫菊浸出石油に引き継がれ息の長い防除手段となりウンカに卓効のあるガンマーBHCが出現するまで続いた。寛文年間から数えて、278年も生産現場で使用された世界の防除史上で類をみない最長不倒の防除法と思われる。

同じような飢饉は世界でも起こっている。アイルランドではジャガイモが主食であったが19世紀の輸出入もままならぬ時代、ジャガイモの収量と人口はパラレルの関係にあった。1845年にジャガイモ疫病が大発生し人口800万人のうち100万人が餓死し100万人が国外に逃れた。この時、米国に逃れた通称「ポテト移民」と呼ばれる人の中にケネデイ大統領の曽祖父のパトリック・ケネデイがいたのである。この飢饉がなかったらケネデイ大統領の存在もなかったしケネデイ家の悲劇も起こらなかった筈である。
アイルランドでの飢饉がきっかけとなって、ジャガイモ疫病防除のための研究が始まり、植物病理学が起こったといわれ、ボルドー液が疫病に効果があることが確認されている。
アイルランドにも“飢え人地蔵”的なものがあったかどうかは不明である。
(2016年11月掲載)

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